ひきこもり女子いろいろえっちさんの体罰論についての疑問

『モモヤするー』
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/09/19/164258

昨日、ひきこもり女子いろいろえっちさんの記事が、はてブのトップにあがっていた。


内容は、


体罰は、一方的な暴力だ。
一方的な暴力は、人権侵害だ。
だから、体罰は人権侵害だ。
人権侵害ならすぐに禁止しないといけないのに、いまさら体罰の効果について、何で議論してるの。
議論はいらない。


という内容。
特徴的なのは、議論がいらない、という点。

賛成しているコメントがたくさんあって人気が高い。

 


『自分の切り売り』
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/09/21/024509

そして今日こんな記事があった。

一言でいうと、

 

人権はまるごと全部保障されるべきものなのに、仕方ないね、と言って人権の一部を否定して、支配者に自分の人権を切り売りしてる人がいる。

 

という内容。

 

 

『今の自分にわかること』
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/14/191626
『バカと弱者の人権』
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/07/22/023413

 

遡ってみると、こういう記事もある。

 

低い階層に落ちた人にも、人権を保障してよ。

 

という内容。

 

 

この4つの記事に共通するのは、「人権は無条件で保障されるべきだ」というもの。


人権は、どんな人でも人であるかぎり、当然に要求できる権利だから、無条件で、絶対的に保障される。

これは素朴に考えて、あたりまえに見える。

彼女の意見は、素朴な人権観を代表していて、直感的に納得できる。

一方で、後で見るように、この素朴な人権観が膨張して、人権に関する議論の否定にまで拡大していく傾向があるので、そこのところでは私は立場を異にする。
もう少しくわしく見てみる。

 

 

 

例えば、冒頭の体罰の記事を例にすると、彼女の主張は、

 

言うことを聞いてくれない人がいても、一方的な暴力で押さえつけずに、言葉の力や、振る舞いの力など、もっと穏健なやり方で、対応しよう。

 

という主張だ。

 

暴力の否定、穏健さの肯定。

 

こうして高らかに人間性が讃えられた直後、突然、落雷のように結論に帰結する。

体罰は、一方的な暴力であり、犯罪であり、人権侵害である。」

と、4つの概念を一直線に直列することで、体罰を人権侵害だと評価するのである。

 

体罰は絶対に悪いという素朴な感情を、人権の絶対性にまで直結させるこの劇的な配列は、ある一撃を加えることになった。

それは、「体罰が人権侵害であるのなら、それはどんなときであっても、全面的に禁止されるべきであるから、いまさら体罰の効果について議論しても、意味がない」という一撃である。

こうして鮮やかに、我々は議論の無効をさとる。

 

 

 

 

しかし、そもそも何が体罰かを具体的に指し示すためには、体罰の効果について論じることは避けては通れないはずだ。

 

例えば、万引きをした子供を叱るときに母親がビンタをするのは体罰か否か、という疑問に対しては、ビンタをすることで子供にどういう心理変化があるのかといったことを議論しないと回答できない。
これに回答しないと、禁止すべき体罰自体が特定できない。

 

もしそれでも、議論なしに体罰を定義づけようとした場合、例えば、子供の自由意思に反して、子供の身体に物理的制約を加える行為の中で、何が良い制約で、何が悪い制約かの、線引き問題が議論できないので、すべての身体的制約を体罰とするか、すべての身体的制約を体罰でないとするかの二択しか選べない。
だが体罰のない世界はない。
したがって、体罰の効果についての議論を潔癖に避けて、彼女の純粋な信念を、そのまま権利意識にぶつけると、すべての身体的制約を体罰だと規定する固い態度が導き出される。

 

すべての身体的制約が、体罰だと規定されたら、例えばどうなるか。
教師は、生徒の身体に彼の意思に反して触れることができないから、乱暴な生徒がいても、生徒指導室に連行して、一定時間、身体を拘束することができなくなる。そこで、どうするかというと、警察力を動員するか、あるいは、学校から法的にパージする。つまり、生徒はクッションのないまま、社会に放り出されることになる。たしかに生徒は体罰は受けていないが、それは正しいのだろうか。
私自身その答えがわからないので、どこからが体罰で、どこからが体罰でないかの議論をすることは大切だと思う。

 


そして、もう一つ。
仮に議論をせずに、体罰とはこれこれであると、われわれの中に鮮明なイメージを共有し、定義づけることができたとしても、体罰の効果を論ぜずして、いったいどういう風にして、様々な体罰の性質の違いを比較するのだろうか。
彼女の場合、体罰の効果についての議論は廃止して、体罰は人権侵害だから禁止しろ、というふうに端的に、体罰の一律禁止を導き出すが、そこでは体罰のもたらす否定的な効果についての議論、すなわち、体罰によって侵害される人権とは何かという議論が塞がれている以上、どういう権利が侵害されているのかわからないので、すべての体罰が等価になり、どんな残酷な体罰も、もっとも軽い体罰と同じ程度の権利侵害をしているにすぎないと評価されることになる。

 

 


私は体罰の効果についての議論も、人権とは何かという議論も、必要だと思う。

現実的には、その議論は永遠に終わらない。
そういうところは、たしかにすっきりしない。
きっと彼女の中では、体罰の鮮明なイメージがあるから、議論なんていらないよという素朴な気持ちがでてきたのかなと思う。いつか、そういうイメージをみんなが共有できたらいいと思う。


だけど今はへりくつの議論の中で、押し合いながら定まってくるギリギリの均衡線が、人権として、体罰として共通理解されている。

いつになっても不満であるけど、それでもなおかつ漸進的に進んでいくしかない。

 

その経過をたどらずして急進的に体罰の悪さを規定しようとする態度は穏健とはいえない。
穏健ではないということは、暴力的であるといえる。

 

ここにきて、 彼女は穏健であろうとするあまり、暴力的になってしまう悲劇に帰結したとわかる。

このままでは純粋性が悲劇に終わってしまう。